古代の道「山陽道」の駅路はどこを通っていたか、一考察
 (郷土史の談話 71)
古代の道「山陽道」の駅路はどこを通っていたか、一考察 
1.古代の道「山陽道」の概要
 「古代の道」は、奈良時代、平安時代の重要幹線道路で、五畿七道が古代の行政区画、幹線道路と定められ、その中でも「山陽道」は、「大道」として位置づけられ、都のある畿内と日本の玄関口である九州の大宰府を結ぶ道に、隋や唐に倣って中央と地方の情報通信、交通網として最大・最重要な道でした。
 駅路の重要性から、道幅や整備される駅馬の数などの規模も最大でした。古代の道、特に山陽道とはどんな駅路だったのでしょうか。
(1)基本的に直線道路になるように路線を決定している。集落を経由する日常利便性を考慮していない。
(2)一定の幅広(12m前後)の道路幅員を確保していた。後に(9世紀〜)5,6mに半減(改変)さた。
(3)平坦路、少々のことなら切通しや埋め立てして路線を確保した。
(4)駅路の両側に側溝や並木が植栽されていた。

※駅路・駅家に関するページです。先に目を通されることをお勧めします。


(47)古代の道と
駅家 (うまや)

〜兵庫県内〜
※古代史の謎に、
いま注目が集まる!

(18)古代の道
「山陽道」
駅家(うまや)を辿る
(5)基本的に、一定間隔(30里=約16kmごとに)に宿泊や騎乗駅馬の交代駅馬20匹を具備する駅家が整備されていた。
(6)駅家の周辺には、駅家関連の機能を果たす施設として、厩舎、牧場、厨房、専属の倉庫、遠くを眺望する塔の駅楼、駅管理事務所的建物が整備されていたと考えられます。
2.古代の道の駅路・駅家の比定

直線道路は古代の道の痕跡
  古代の道は、維持管理に多大の労苦・コストがかかるようになり、目的地への一直線的駅路よりも、途中の集落を連絡した「伝路」の利便性が求められてきて、約1000年前頃には転用あるいは放置されてきました。その以後の長年の土地利用の変化や、現在の都市開発、農地整備などの進展により、今では古代の道の痕跡を見つけることが難しくなっています。
 最近では、古代の道の研究の積み重ねから、次のような観点から古代の道を比定していく調査・発掘・研究が進められています。
(1) 古文書の記載。
  10世紀前半の『延喜式』には、諸国の駅家や抱えるべき駅馬などの記載があり、また、諸国の地名などが記載された『和名類聚抄』、ほか『播磨風土記』、『日本書紀』などの六国史、『類聚三代格』、昔の人の旅日記などなどがある。
(2)該当地周辺の過去の発掘調査報告書、出土物の再検討。
  旧来の発掘調査では、古代の道の概念が小さかったので、道路や側溝の跡や建物柱跡、瓦や木簡などの出土品分析、「瓦葺紛壁」が伺える駅家跡と多くの瓦が出する廃寺跡、官衙、国分寺跡などとの検討。意外と新たに判明することがあります。
(3)直線道路、駅家などの痕跡。
  国土地理院の地図(明治〜昭和初期)、終戦直後の米軍が撮影した航空写真、現在の空撮における農地などでの地中の道路側溝跡が伺えるソイルマーク(地中の含水帯)、昔の農地区画(基本は正方形)を示す条理余剰帯の存在など。
  また、古文書や現在において、駅路・駅家に因んだ地名、周辺の字地名、道路痕跡の地割の連続性・方向性、)旧行政(郡、村など)の境界線など。

古代の道は広幅員の直線道路
(山陽道の布勢駅周辺)
(4)現地踏査や発掘調査。
   実際の地形条件、池・河川跡、険しい峠・山道・難しい地点の回避ルート、大雨時の洪水・氾濫常態地の回避ルートなどを確認する。駅家跡のほか、駅家関連施設跡(駅長・駅戸、駅田、厩舎、牧場、厨房舎など)の存在など。これらも、図面上だけでは気づかないことが明らかになればいいですね。
  また、該当地域周辺での発掘調査が進むことを期待しています。  
3.古代の道「山陽道」の駅路図
 古代の道「山陽道」は、都と大宰府を結ぶ最大の幹線道でした。五畿七道の中でも「大道」としての格付けで、40里(約16km)ごとの豪勢な瓦葺粉壁の駅家、駅馬も20匹を常備していました。『延喜式』によると、京都を出た山陽道は、「山埼駅」(京都市)、「草野駅」(箕面市)を経由し下河原(伊丹市)あたりから兵庫県内に入ります。
 下図の路線概略と駅家については、『延喜式』には「邑美駅」と「佐突駅」の記載がないので、当時は廃止されたものと思われます。駅路は、平野部は直線的に、高い丘は迂回しながらも極力短距離を、また峠などは難路の程度和らげながら低地を地形に併せて通っていたようです。
 それでは、以上のことなどから考察して、まず図面上で、山陽道の駅路を辿ってみましょう。

下河原(伊丹市)〜JR「さくら夙川」周辺(西宮市)

JR「さくら夙川」周辺〜「葦屋駅家」〜生田川(神戸市)

生田川〜「須磨駅家」〜境川〜塩屋        
生田川〜「須磨駅家」〜白川〜布施畑      
生田川〜「須磨駅家」〜多井畑〜塩屋      
生田川〜「須磨駅家」〜多井畑〜名谷      

「須磨駅家」〜境川〜塩屋〜舞子〜朝霧〜「明石駅家」 
  「須磨駅家」〜白川〜布施畑〜大山寺〜長坂〜「明石駅家」
「須磨駅家」〜多井畑〜塩屋〜舞子〜朝霧〜「明石駅家」
 
「須磨駅家」〜多井畑〜名谷〜高丸〜舞子〜「明石駅家」 

「明石駅家」「邑美駅家」〜土山(明石市)

土山(明石市)〜「賀古駅家」〜「佐突駅家」

「佐突駅家」「草上駅家」〜桜峠(姫路市)

桜峠〜「大市(邑智)駅家」〜槻坂〜琴峠(たつの市)

琴峠 〜「布勢駅家」〜二木峠〜椿峠〜「高田駅家」〜與井(上郡町)
琴峠 〜「布勢駅家」〜二木峠〜椿峠〜「高田駅家」〜上部(上郡町)

與井〜飯坂〜「野磨駅家」(後期)(前期)〜船坂峠
上部〜飯坂〜「野磨駅家」(後期)(前期)〜船坂峠
4.古代の道「山陽道」の駅路・駅家を辿る(兵庫県内)
 上の図面に基づき、駅路の重要な通過地点および駅家跡などを見てみましょう。駅路については、まだ確定された部分は少なく、気象条件に左右される駅路もあって、迂回路を含めて種々学説があります。また、駅家の位置も発掘等で確認された「邑美駅」「賀古駅」「布勢駅」「野磨駅」を除いて諸説の候補地がありますが、とりあえず、私なりの一考察を加えてみました。

大阪空港北部の下河原を通り猪名川を渡る
(伊丹市)

(直線路)

西への山陽道と北への多田街道との交差する地点、「辻の碑」

(直線路)

西へ伊丹台地に上る伊丹坂

(直線路)

昆陽寺

(直線路)

武庫川を越える「髭の渡し」跡
(尼崎市)

(渡河)

武庫川西岸の報徳学園付近
(西宮市)

(直線路)

門戸厄神近くの古道

(直線路)

西南に直進してきた駅路が西へ転じるJR「さくら夙川駅」付近

(直線路)

この付近に「葦屋駅家」があったとされる深江北町遺跡
(神戸市)

(直線路)
【葦屋駅家の候補地について】
 「葦屋駅家」は、近年に発掘した深江北町遺跡(神戸市東灘区深江北町・深江本町・本庄町)から、奈良時代の建物群や木簡や道具類に加えて、「驛」と墨書した土器が出土しているので、北に隣接する津知遺跡(芦屋市津知町・川西町)を含めて、ここが「葦屋駅」ではないかと思われます。
 津知遺跡は、深江北町遺跡と接した現在は芦屋市の住宅街となっており、遺跡としては一帯に広がっています。

津知遺跡の住宅街にある神社

西灘付近の西郷川、若干方向を転じる

(直線路)

古代の港「敏馬泊」にあった敏馬(うねめ)神社横を通る

(直線路)

三宮付近の西国街道
(古代山陽道)

(直線路)

「須磨駅家」は摂津国最西端のここ前田公園が別道分岐の拠点として最適

(直線路)

海岸路を西へ、ここは摂津国と播磨国の国境を流れる境川

(海岸沿い)

海にせり出す鉢伏山の南麓海岸沿いを回り込み、塩屋へ

(海岸沿い)

【「須磨駅家」の候補地について】
  「須磨駅家」は、前田公園のほかに大田町遺跡(神戸市須磨区太田町・戎町)、現在は郵便局が立地している所との説もあります。
 しかし、好天時には最短距離になる海岸路を通ったとしても、悪天時に崖下の波打ち際を歩くことになる海岸路を避けて内陸の迂回路を採ったと考えられています。内陸の丘の高地を横断するにしても比較的に歩きやすく、かつ最短になる迂回路を利用しやすい位置での「須磨駅家」の立地が重要と思われます。
 発掘による証左が得られていませんが、より西側の後の時代に「須磨の関」が置かれた前田公園の付近に「須磨駅家」があった可能性あります。


大田町遺跡が発掘された郵便局の用地

やがて海岸路は高い絶壁の迫られ、浪打際付近を通過

(海岸沿い)

多数の滝が高い絶壁から流れ落ちていた「滝の茶屋」付近

(海岸沿い)

海岸路はやがて、美しい松林が続く舞子の浜を通る

(海岸沿い)

海岸路(国道2号)は朝霧付近から明石内陸方面へ直行する
(明石市)


(海岸沿いを離れ内陸へ)

「明石駅家」があったと思われる太寺廃寺跡

(明石の城山の南麓を目指す)
「須磨駅家」から「明石駅家」に至るまで、3つある迂回駅路ルートについて】
 前田公園ないし太田町遺跡から「明石駅家」に至る駅路ルートについては、3案ある。
(1)「海岸路」=前田公園「須磨駅家」〜境川〜塩屋〜滝の茶屋〜同〜舞子公園〜朝霧〜「明石駅家」
(2)「白川・長坂路」=大田町「須磨駅家」〜板宿〜白川峠〜大山寺〜長坂〜「明石駅家」
(3)「多井畑・塩屋・海岸路」=前田公園「須磨駅家」〜多井畑峠〜多井畑神社〜塩屋〜滝の茶屋〜同〜舞子公園〜朝霧〜「明石駅家」
(4)「多井畑・名谷・舞子路」=前田公園「須磨駅家」〜多井畑峠〜多井畑神社〜名谷〜高丸〜舞子公園〜朝霧〜「明石駅家」
 この4つの駅路ルートのうち、気象条件によって通行の難易度が変わってくる。(1)の「海岸路」は最短距離であり、大雨や大風が無い日は利用されていたであろう。しかし、暴風雨にでもなろうなら、内陸の迂回路を通ったであろう。(2)の「多井畑・長坂路」に入るには、太田町遺跡「須磨駅家」からが便利で、妙法寺川(白川)と伊川沿いの比較的低地を進むが、かなり遠回り・長距離であることは否めない。 (3)の「多井畑・塩屋・海岸路」については、須磨から塩屋にかけての断崖海岸路を避けることができるが、塩屋から海岸路を採ると、滝の茶屋の断崖・滝・狭い海岸があって、同様の難儀は降りかかる。とすると、悪天候時の迂回路は、(4)の「多井畑・名谷・舞子路」なら、断崖・海岸路を避けて、なおかつ距離的なロスが無いことから選択されるべきコースと思われます。
【須磨駅家からの別ルート駅路「多井畑・名谷・舞子路」について】
 内陸の多井畑神社へは、奈良時代末期に畿内最西端に祀られた厄除け神社で、言わば常用の路。ここから「明石駅家」へは、ほぼ直線的に西方に進むのが最短である。しかし、途中の高丸(垂水区)地区などの複数の尾根を横断するよりも、名谷に降りてきて、かつ高丸の尾根南麓を回り込んで海岸の幅広く松林が広がる舞子に出て、あと比較的楽な海岸路を向かうのが、地理的・距離的にも最適な迂回路と考えられます。

「須磨駅家」を出て、内陸を北へ多井畑神社を目指す

海岸路を避けて内陸迂回路へ、多井畑峠を越える

古代の厄神社、多井畑神社

内陸に迂回した駅路は、高丸台地の南麓を通り舞子公園付近で海岸路へ
【須磨駅家からの別ルート駅路「白川・長坂路」について】
 迂回路の候補として有力と言われている。しかし、上の地図で示すとおり、太田町遺跡だったとしても「須磨駅家」から東に戻って板宿から妙法寺川(白川)をさかのぼり、白川峠から伊川伝いに「明石駅家」を目指すには最遠距離の行程となります。
 最近の現地踏査で、伊川の中流付近の長坂台地を南北に通じる古代の道の痕跡が確認されていますが、山陽道の迂回路だったかどうかは分かりません。

「須磨駅家」の別候補地、大田町遺跡(現、郵便局)

左の駅家からなら北へ、板宿から妙法寺川筋をさか上る

白川峠

大山寺山門

長坂で発見された古代の道跡

「明石駅家」に内陸北から到着
【須磨駅家からの別ルート駅路「多井畑・塩屋・海岸路」について】
 「須磨駅家」から悪天候時に内陸の迂回路に回る場合に、須磨鉢伏山の断崖波打ち際を避ければよいから多井畑神社から塩屋谷川沿いに塩屋に降りてきて、それから海岸路を行くことになる。しかし、塩屋から海岸路にもどれば、滝の茶屋付近の断崖を流れ落ちる多数の滝の影響を狭い波打ち際の道でさけるのは困難と思われる。結果、迂回をしたことにならないので、この迂回路は無かったものと考えられます。  

古代の厄神社、多井畑神社。ここから塩屋谷川沿いに南方へ

海岸路の塩屋で合流
【明石駅家の候補地について】
 「明石駅家」については、明石城の城山に繋がる段丘の上の太寺廃寺跡が第一候補となっています。近くに駅家の利用した菅原道真と駅長との交友が記された古文書もあり、このことを伝える碑も近くに建っていて、この付近に駅家の存在が有力です。しかし、碑があるからと言って駅家所在の確証にはなりません。他の候補地として、同じ段丘の南端にある上の丸遺跡、段丘を降りた海岸寄りの天文町遺跡や東仲ノ町遺跡も瓦の出土があり、候補の内と考えられています。

候補地の太寺廃寺近隣に建つ菅原道真と明石駅長とのゆかりの地を示す「菅公旅次遺跡の碑」


「明石駅家」の候補地の一つ、
天文町遺跡

「明石駅家」の候補地の一つ、
東仲ノ町遺跡

「明石駅家」の候補地の一つ、
上の丸遺跡
「明石駅家」を出て、明石城跡の高台(城山)南を西へ

(直線路)

古代の道の痕跡、条理余剰帯が残る嘉永橋西詰付近

(直線路)

和坂の集落、ここから駅路は少し西北へ転じる

(直線路)

古代の道付近の雲楽池

(直線路)

『延喜式』に記載はないが、廃止された「邑美駅家」の長坂寺遺跡、ここから少し方向転ず

(直線路)

古代の道が発掘された
福里遺跡

(直線路)

福里遺跡に隣接する碑沢池、真ん中を駅路跡が通る

(直線路)

「駅池(うまやがいけ)」、近くの駅家を想定させる池の名前(加古川市)

(直線路)

「賀古駅家」跡が発掘された
古大内遺跡

(直線路)

神爪付近(高砂市)

(直線路)

豆崎段丘南麓を回り込みながら通る古代の道(国道2号)

(直線路)

廃止された「佐突駅家」跡と思われる北宿遺跡と駅家碑
(姫路市)

(直線路)

播磨国分寺跡、ここから少し方向を転ず

(直線路)

姫山(後に姫路城が建つ)の南麓を西へ

(直線路)

「草上駅家」跡と思われる
今宿丁田遺跡付近

(直線路)
【草上駅家の候補地について】
 「草上駅家」は、辻井廃寺跡の付近にあって、出土物のじょうきょうから今宿丁田遺跡が有力とされています。そのほかには、播磨国府跡の近くに駅家があったとの説もあります。

「草上駅家」の候補地の一つ、
播磨国府跡の本町遺跡

「草上駅家」の候補地ではないが、近隣に建っていた辻井廃寺跡

桜が池へと向かう桜峠

(峠道を越えて西側の里へ)

大市中遺跡近くに「大市(邑智)駅家」跡の碑が建つ

(直線路)

槻坂、当時の古代の道もこんな峠道を越えた

(槻坂の険しい山道を越えて直線路へ)

龍野新大橋付近を揖保川渡河
(たつの市)

(直線路)

琴峠を越える

(比較的なだらかな琴峠を越える)

峠を降りたらすぐ「布勢駅家」跡が発掘された小犬丸遺跡

(直線路)

二木峠

(二木峠を越えて直線路へ)

続いて椿峠を越える(相生市)

(なだらかな椿峠を越えて西側の里へ)

「高田駅家」があったと思われる辻内遺跡(上郡町)

(直線路)

神明寺遺跡付近の願栄寺、ここから若干南方面へ回り込む

(山の南麓沿いを通り、千種川を渡河)

正面の山を迂回して、與井を通って山野里の大池付近へ

(山野里から飯坂へ谷筋を進む)

なだらかな山道を越える、飯坂

(なだらかな飯坂を越える)
【高田駅家からの別ルート駅路「上郡東町路」について】
 「高田駅家」から西方に向かうには、上部の山が横たわっている。山に分け入るか、南麓を迂回するかして千種川を渡河した。山道の上部を通っても、南麓の與井方面へ回っても、千種川までの距離はほぼ同じである。よって飯坂に向かうには、與井路の方が直線的で、当然こちらを駅路としたであろう。

願栄寺から直接山道へ入り、上部に出る。上部から千種川を渡河

渡河して直線的に大池付近へ

移転新築された「野磨駅家」跡が発掘された落地飯坂遺跡

(直線路)

最初の「野磨駅家」が発掘された落地八反坪遺跡

(直線路)

国史跡に指定された「山陽道野磨駅家跡」の看板

(直線路)


梨ヶ原集落(西国街道の宿場)

(船坂峠に向いて地形なりに進む)

険しい船坂峠を越える
(船坂峠)

備前国との国境(船坂峠)

(船坂峠を備前国の「坂長駅家」へ)
 山陽道の駅路や駅家については、全国的にみて比較的に比定が進んでいるが、まだまだ分からない多くの地点が残されています。今後も、更なる発掘調査、研究が望まれます。(2017年4月)
※参考資料:『歴史の道調査報告書全集9“近畿地方の歴史の道9”兵庫1』兵庫県教育委員会(海路書院)、『歴史の道調査報告書全集10“近畿地方の歴史の道10”兵庫2』兵庫県教育委員会(海路書院)、『山陽道駅家跡〜西日本の古代社会を支えた道と駅〜』岸本道昭著(同成社)、『完全踏査・続古代の道(山陰道・山陽道・南海道・西海道)』武部健一著(吉川弘文館)、『古代官道・山陽道と駅家〜律令国家を支えた道と駅〜』兵庫県立考古博物館、『ひょうごの遺跡』兵庫県立考古博物館、『古代道路の謎〜奈良時代の巨大国家プロジェクト〜』近江俊秀著(祥伝社)、『日本の古代道路を探す〜律令国家のアウトバーン〜』中村太一著(平凡社) など
※下の「写真」をクリックして下さい。

(47)古代の道と駅家
(うまや) 〜兵庫県内〜

※古代史の謎に、
いま注目が集まる!


(18)古代の道
「山陽道」
駅家(うまや)を辿る

(57)古代の道
「山陰道」
駅家(うまや)を辿る

(61)古代の道
「南海道」
駅家(うまや)を辿る

(62)古代の道
美作道・因幡道」
駅家(うまや)を辿る

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