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![]() 駅路だった現在の国道28号と、駅路沿線に残る立石 |
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律令制五幾七道の「南海道」は、平城または平安の京の都と四国地方を結んでいた。
都を出て、畿内の山城國、河内國、和泉國を経て「南海道」に入る。南海道は、紀伊國を通り、紀淡海峡を渡って淡路國へ、淡路國を横断して鳴門海峡を渡って阿波國、讃岐國、伊予國や、途中分かれて土佐路を土佐國へ至る。総距離約380km(兵庫県内=淡路島内は約26km)。 律令の規定では、駅路は大路・中路・小路に分けられており、南海道はその重要度と頻度から小路に規定されていた。駅路には約16km(当時の30里)ごとに駅家(うまや)が設けられて駅馬が常備されていた。小路の駅家には、5疋の駅馬を置く、と当時の行政規定であった『延喜式』兵部省式諸国駅伝馬条(927年に編纂)に記されている。 紀伊國賀太駅(和歌山県)から紀淡海峡を渡り、淡路國に入るが、淡路國には駅家として、「由良」「大野」「福良」の3駅、また、「大野」と「福良」の駅の間には、768年(神護景雲2)には廃止されたとある「神本」駅のつごう4駅が存在していた。福良駅からは鳴門海峡を船で阿波國石隅駅(徳島県)に渡る。 淡路島内の駅路(経路)と駅家の比定については、神本駅の廃止によって駅路(経路)も変更されていたものと思われるので、神本駅が廃止されるまでを前期、廃止後を後期と分けて考えてみたい。 |
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●駅家の配置と駅路 | |||||||
1.前期(768年神本駅廃止以前) 紀淡海峡を渡り、由良港(洲本市)に上陸する。港の近隣に立地する駅家、由良駅(洲本市)を出発して、海岸沿いに北上。小路谷(同)に至り、そこから内陸へ入って千草(同)に至る。駅路は、次の駅家の大野駅に向かうが、大野駅の比定には主に2説あって、比定地に向かって駅路も変わってくる。 1つは、大野駅を洲本市大野の大野樽池付近とするもの。上記の千草から築狭神社、猪鼻、池内、新村を経由して大野樽池付近(大野駅A説、洲本市)に至り、そこから広田(南あわじ市)へ向かう経路である。 もう1つは、大野駅を洲本市大野の大野白髭神社周辺(野上遺跡)とするもので、千草から物部(同)、宇原(同)を通り大野白髭神社前(大野駅B説、洲本市)に至る。 そして広田を経由して倭文長田(しとおりながた)、榎列掃守(えなみかもり)から南へ、榎列下幡多(えなみしもはた)を通り、榎列大榎列の神本駅(南あわじ市)に至る。神本駅からは周辺の国府のあった十一ヶ所、国分寺あたりを通って国衙から西南方面に曲がって福良駅(南あわじ市)に至る。 福良駅近くの福良港から乗船、海路四国方面へと向かう。 |
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2.後期(768年神本駅廃止後) 神本駅が廃止された後の後期においては、古来の淡路を縦貫する道のあった路線に合流を目指したかのように、駅路も大野駅の立地も変更されたように窺える。 由良駅(洲本市)から海岸沿いに北上して小路谷(同)へ、そこから内陸へ入り、同じく千草(同)からは北西方面の物部(洲本市)、加茂、下内膳を通り、上内膳(下内膳遺跡西端部)あたりに整備された大野駅(C説、洲本市)に至る。大野駅からは、直接に広田に出て、八木養宜、八木立石、国衙を通り、福良駅(南あわじ市)に至ったものと考えられる。 |
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●南海道における駅家(兵庫県内) | |||||||
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淡路島内(兵庫県内)を通っていた南海道の駅家や経路の比定には、まだまだ遺跡発掘や研究調査が必要と思われます。今後の一層の進展をします。 (2025年6月) |
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※参考資料:『歴史の道調査報告書全集10“近畿地方の歴史の道10”兵庫2』兵庫県教育委員会(海路書院)、『完全踏査・続古代の道(山陰道・山陽道・南海道・西海道)』武部健一著(吉川弘文館) |
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