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古代の道「美作道」の駅家(うまや)を辿る
(郷土史の談話 62) |
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(美作道の中川駅があったと推定される新宿廃寺跡周辺の地) |
古代の道「美作道」は、古来鉄のの産出国として重要な地の美作國が成立(『続日本記』713年・和銅6)し、官道として山陽道から分かれて整備され、
いわば産業道路の一面も持ち合わせていた。都から西域の国には五幾七道としての山陽道のほか山陰道が通っていた。 美作道・因幡道は、都から播磨の地を通って美作へ繋いでいただけでなく、途中から山陰方面への因幡道、出雲道として併せて、山陽山陰を結ぶ重要な道路で、人貨の往来に多く利用されていたものと思われます。
古文書『延喜式』兵部省式において、播磨國の山陽道の駅家には駅馬20疋~40疋にならび、越部駅と中川駅には5疋の駅馬数が定められている。この越部駅、中川駅が、山陽道から分かれる支路「美作道」の駅家である。 |
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●美作道、因幡道の経路と駅家の配置
山陽道との分岐は、草上駅説と大市駅説とあるが、道代(駅路に沿った条理の余剰帯)の確認などから「草上駅」 とするのが適切である。
「草上駅」(姫路市東今宿、今宿丁田遺跡)から分かれた美作道は、北へ辻井廃寺遺跡付近へ、西北方面に向かい、夢前川を渡り石倉(姫路市)へ、大津茂川と追分(たつの市)、林田川と東觜崎(たつの市)、揖保川を渡り対岸の觜崎(たつの市)から「越部駅」(たつの市新宮町馬立)と推定される地に至る。 |
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越部駅からは北上し、現在のJR姫新線や国道179号と同様に新宮から西北へ千本(たつの市)を通り、志文川を渡れば「中川駅」(佐用町三日月町末廣)である。
中川駅を出て千草川を渡り、下徳久(佐用町南光町)から北へ下徳久坂に分け入り、山中を西進して大願寺(佐用町)にでる。大願寺から西に少し、幕山川に沿って因幡道との「佐用分岐」に至る。下徳久から西の谷の近現代の街道筋にあたる佐用坂を越えたとする説もあるが、急峻な道ゆえに、下徳久坂を通ったものと考えられる。
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(佐用分岐地点、美作道と因幡道と分かれる) |

(佐用分岐地点周辺の図)※『近畿地方の歴史の道10・兵庫2』より
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因幡道との佐用分岐地点をそのまま西進し、杉坂峠を越えれば美作國(岡山県)に入り、英田駅(記録に残っていないが、美作国府まで距離があり、英田、勝田の周辺に駅家があったと推測される)に辿り着く。
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(美作道) |

(杉坂峠、越えると美作國) |
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佐用分岐から沢沿いの谷合いを北上し、仁方、豊福、中山を通り、かなり急峻な釜坂峠を越えて因幡國(鳥取県)に入って道俣駅(『延喜式』には既に廃止されたか記載はないが、別の古文書などから設置が推定される)に至る。
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(因幡道) |

(釜坂峠、越えると因幡國) |
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※兵庫県内の古代の道と駅馬の制度について概要を解説しています。
(47)古代の道と駅家(うまや)~兵庫県内~
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●美作道における駅家(兵庫県内) |
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越部(こしべ)驛
揖保川を渡り、古代(奈良時代)の山城の麓、旧越部村の馬立の地に「越部駅」(たつの市新宮町馬立)が設けられていたと推定される。揖保川を渡り上陸した船渡の地や、越部廃寺跡とする説もあるが、馬立のほか前田など駅家に通じる地名字名の伝承のあるこの馬立の地が適切と思われる。ただし、駅家を想定させる明確な遺跡などは見つかっていない。
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(揖保川西岸の馬立の集落図)※『近畿地方の歴史の道10・兵庫2』より
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(越部駅があったと推定される馬立の集落を望む) |

(同左) |
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山陽道沿線と違って、都市化の波がそれほど進まず、大型土木建設工事も入らず、山陰方面への内陸部においては、美作道、因幡道とも古文書の記録も少なく、駅家跡の発掘例もほとんどありません。駅家や経路の比定には、まだまだ遺跡発掘や研究調査が必要と思われます。今後の一層の進展を期待します。
(2015年9月) |
※参考資料:『歴史の道調査報告書全集10“近畿地方の歴史の道10”兵庫2』兵庫県教育委員会(海路書院)、『完全踏査・続古代の道(山陰道・山陽道・南海道・西海道)』武部健一著(吉川弘文館) |
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