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古代の道の駅路・駅家(うまや)概説〜兵庫県内〜
(郷土史の談話 47) |
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古代の道「山陽道」の痕跡、稗沢池内道路(明石市)
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(古代の道は、広幅員の直線道路。山陽道の布勢駅周辺)
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1.律令制度と五畿七道
律令国家をめざした中央政権は、地方行政の組織を国・評(郡)・里(郷)に編成し、中央から派遣した役人(国宰・国司)が政務を執る体制をつくりました。その行政単位は五畿七道、すなわち五畿は都とその周辺(いわば首都圏)畿内の山城、大和、河内、和泉、摂津の国の5国、七道は、都・首都圏とその他の地方を連結する官道で、東海、東山、北陸、山陽、山陰、南海、西海の7つの諸道を設け、またその道沿線の国々を治める行政区画としました。
この古代の官道は、最重要政策道路として整備され、情報伝達をスムーズにするために最短距離で極力直線ルートで向かい、道の両側周辺に租税の基礎となる水田の区画(条理)を設定しました。
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2.古代の官道と駅制・伝制
この五畿七道を中心に、都のある畿内と、日本の玄関口である九州の大宰府など全国主要地域とを結ぶ道に、隋や唐に倣って中央と地方の情報通信交通網「駅制・伝制」を整備しました。
国家の基幹道路である官道七道はその重要度により、大路・中路・小路にランク分けされ、山陽道は大路、東海道と東山道が中路、その他が小路とされていました。
兵庫県内には、主要な古代の道は、「山陽道(大路)」「山陰道(小路)」「南海道(小路)」と3本が東西に走っていました。「山陽道」途中からは「美作道」と「因幡道」が分岐し、「山陰道(小路)」には「本道」と「丹後・但馬」のバイパス道がありました。
(1)駅路(えきろ)と駅家(うまや)
駅制に基づく「駅路」には、途中に宿泊施設・迎賓施設の「駅館院、駅楼など」・多数匹の馬が常備された「駅家(うまや)」がありました。馬の乗り継ぎや休憩、飲食の提供、死者の宿泊のための、今で言う道の駅です。幅6m〜12m前後で、当時の駅路30里(約16q)毎に「駅家(うまや)」を配置し、所定の駅馬(山陽道は「大道」として20匹が基本。山陰道と南海道は、「中道」として10匹。美作道や因幡道は「小道」として5匹を常備)が配置、用意されていました。
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全国で最初に駅家の全体が発掘調査された布勢駅。駅家の近くを山陽道が通っている。 |
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(2)駅使と駅鈴(えきれい)
官道を通り、朝廷駅使の諸国間緊急連絡や公文書の伝達、官人たちの通行、地方からの税金(庸・調)の運搬、外国の使節たちの休憩・宿泊など、交通手形ともいえる「駅鈴」を持って通る使者たちの交通便宜を計っていました。天皇から駅鈴を賜ったことになる使者は、位階により違いはあるが、従者をともおおに駅鈴の尅数に応じて駅馬を利用し、駅ごとに乗り継ぎ8駅以上を、急使の場合は10駅以上を進み、饗しを受けました。
(3)駅長・駅戸・駅子・駅田・駅起稲(駅稲)
各駅には、駅の維持・運営のための組織として、周辺から駅務に復する義務を負う特定の農民、駅戸(えきこ)が指定され、うち中々戸以上の駅戸一戸あたり一匹を飼育します。駅馬には駅田(えきでん)が宛がわれて耕作収穫し、駅戸の中から旧家で富裕な戸が駅長(えきちょう)に選ばれており(世襲)、駅戸から徴発された駅戸の課丁が駅子(えきこ)の労務に携わりました。駅長は、調・庸・雑徭の税が免除されていましたが、駅使の送迎や接待、駅馬と駅子の仕立、駅家・駅田の管理、駅起稲の収納・支出を担います。駅子は、口分田の他に駅田耕作・駅馬飼育を行いました。
駅起稲(えきとう)は、各駅家を運営する財源とされ、駅家内で貸付(出挙すいこ)されその利潤が駅家独自の運慶経費にあてられました。駅起稲を収穫する駅田は、大路4町、中路3町、小路2町があてがわれました。駅起稲は、その後正税に混合されました。
駅家の周辺には、抱えている多数の馬のための牧場や馬小屋、駅家に宿泊または宴会をするための厨房や食糧庫などが付設されていた模様です。
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古代の道と駅家(うまや)〜兵庫県内〜
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(4)「定様(ていよう)」の存在
飛鳥時代に設置された駅(前期駅家)は、奈良時代に瓦葺きで礎石をもつ建物に建て替えられました。これ以後を後期駅家と区別しています。
古文書『日本後紀』の大同元年(806年)に記された山陽道の駅家の修理・整備については、「前制」のとおり修理し、新整備には「定様」に従うように、と記されています。すなわち、山陽道の駅家には基本的な仕様(整備マニュアル)が存在していたようです。
特に兵庫県内、播磨国の駅家には次のような仕様が想定されます。
@全ての官道は「30里(約16km)ごとに1駅」と養老令(757年施行)にあるが、播磨国ではその半分の15里ごとに駅が設けられました。
A眺望が開けた立地、高台や峠下や平地がえらばれている。
B周辺地域には位置は様々だが、同時期に寺院が建立されている。
C駅家の中心建物「駅館院」は、山陽道に近接して正方位(後期。前期は道沿い)で駅家を配置。面積は約6,400m2(後期。前期は約700m2、正方形)。建て替えには若干近隣に移設もある。内部の建物配置はコの字形・中庭の古代の役所と共通する。駅館院の建物は、「瓦葺粉壁」(瓦屋根で朱塗りの柱、白壁造り)で整備。正門はいわゆる礎石や石の唐居敷のある豪華な「八脚門」で、南向きが基本だが道の方向に設置されたものもある。瓦には、役所と同類の「播磨国府系瓦」が使用されていた。 |
直線道路は古代の道の痕跡 |
3.古代の官道その後
このように、いわゆる律令制度の確立への施策の一環として、地域主体による道、駅家の管理を行ってきましたが、時代の推移に合わせて見直しをして、駅家の統廃合や廃止後の再開などを行っていました。しかしながら、国家体制の確立安定と、地域主体の駅制管理(駅路や駅家)の財政的、労務的に限界にいたり、また、「駅道」の幅員の減少や、実質的な交通路としての古来からの旧道ともいえる便利な道(「伝路(でんろ)」)などへのルート変更、統合などあって、直線的広幅員の古代の「駅路」は1000年ほど前には廃絶されました。
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4.古代の道の駅路・駅家の比定
古代の道は、維持管理に多大の労苦・コストがかかるようになり、目的地への一直線的駅路よりも、途中の集落を連絡した「伝路」の利便性が求められてきて、約1000年前頃には転用あるいは放置されてきました。その以後の長年の土地利用の変化や、現在の都市開発、農地整備などの進展により、今では古代の道の痕跡を見つけることが難しくなっています。
最近では、古代の道の研究の積み重ねから、次のような観点から古代の道を比定していく調査・発掘・研究が進められています。
(1) 古文書の記載、「定様」からの類推。
10世紀前半の『延喜式』には、諸国の駅家や抱えるべき駅馬などの記載があり、また、諸国の地名などが記載された『和名類聚抄』、ほか『播磨風土記』、『日本書紀』などの六国史、『類聚三代格』、昔の人の旅日記などなどがある。
また。山陽道(特に播磨国)の場合は、「定様」に従って、基本的な探査・発掘等の目安をつける。
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古代の道は広幅員の直線道路
(山陽道の布勢駅周辺) |
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(2)該当地周辺の過去の発掘調査報告書、出土物の再検討。
旧来の発掘調査では、古代の道の概念が小さかったので、道路や側溝の跡や建物柱跡、瓦や墨書土器や木簡などの出土品分析、「瓦葺紛壁」が伺える駅家跡と多くの瓦が出する廃寺跡、官衙、国分寺跡などとの検討。意外と新たに判明することがあります。
(3)直線道路、駅家などの痕跡。
国土地理院の地図(明治〜昭和初期)、終戦直後の米軍が撮影した航空写真、現在の空撮における農地などでの地中の道路側溝跡が伺えるソイルマーク(地中の含水帯)、昔の農地区画(基本は正方形)を示す条理余剰帯の存在など。
(4)地名など
また、古文書や現在において、駅路・駅家に因んだ地名、周辺の字地名、道路痕跡の地割の連続性・方向性、)旧行政(郡、村など)の境界線など。
(5)現地踏査や発掘調査。
実際の地形条件、池・河川跡、険しい峠・山道・難しい地点の回避ルート、大雨時の洪水・氾濫常態地の回避ルートなどを確認する。駅家跡のほか、駅家関連施設跡(駅長・駅戸、駅田、厩舎、牧場、厨房舎など)の存在など。これらも、図面上だけでは気づかないことが明らかになればいいですね。
また、該当地域周辺での発掘調査が進むことを期待しています。 |
5.兵庫県内の古代の道と駅家
現在までに判明または推測されている兵庫県下の古代の道と駅家の所在について、発掘調査でほぼ確定されているところを除いて、史料での記述が少なく、まだまだ学界においても議論のあるところですが、道ごとの駅路・駅家の確定地、推定地を紹介します。
※山陽道をはじめ各道ごとの駅路・駅家の情況等については、より詳しい談話(リンク先は右欄)にて紹介したいと思います。 |
(1)古代「山陽道」の駅家
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(2)古代「山陰道」(本道)の駅家
@県境・天引峠:丹波篠山市西野々
A長柄(ながら)駅:丹波篠山市西浜谷
B篠山分岐:丹波篠山市宮田
C星角(ほしずみ)駅:丹波市氷上町市ノ辺
D佐治(さじ)駅:丹波市青垣町中佐治
E粟賀(あわが)駅:朝来市山東町柴
F郡部(こおりべ)駅:養父市広谷 |
G養耆(やぎ)駅:養父市八鹿頂八木
H山前(やまさき)駅:美方郡香美町村岡区福岡字前田
I村岡合流:美方郡香美町村岡区耀山
J射添(いそう)駅:美方郡香美町村岡区川会
K面治(めじ)駅:美方郡新温泉町出合
L(県境・としみ峠):美方郡新温泉町鐘尾
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(57)古代の道
「山陰道」の
駅家(うまや)を辿る |
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(3)古代「山陰道」(丹後・但馬支路)の駅家
@篠山分岐:丹波篠山市宮田
A日出(ひづ)駅:丹波市市島町上竹田段宿
B(県境・塩津峠):丹波市市島町下竹田
C花浪(はななみ)駅:京都府福知山市瘤木
D勾金(まがりかね)駅:京都府野田川町四辻
E(県境・岩屋峠):豊岡市但東町中藤
F春野(かすがの)駅:豊岡市但東町唐川、出合市場
G高田(たかた)駅:豊岡市日高町祢布
H名称不詳駅:豊岡市日高町栗栖野
I村岡合流:美方郡香美町村岡区耀山 |
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(57)古代の道
「山陰道」の
駅家(うまや)を辿る |
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(4)古代「南海道」の駅家
@(県境・紀淡海峡):洲本市由良
A由良(ゆら)駅:洲本市由良
B大野(おおの)駅:洲本市大野
C神本駅:南あわじ市市十一ヶ所
D福良(ふくら)駅:南あわじ市福良
E(県境・鳴門海峡):南あわじ市福良 |
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(61)古代の道
「南海道」の
駅家(うまや)を辿る |
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(5)古代「美作道」の駅家
@美作道分岐・草上(くさがみ)駅:姫路市今宿
A越部(こしべ)駅:たつの市新宮町馬立
B中川(なかがわ)駅:佐用郡佐用町三日月末廣新宿
C因幡道分岐:佐用郡佐用町佐用
D(県境・杉坂峠):佐用郡佐用町上月町皆田 |
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(62)古代の道
「 美作道」の
駅家(うまや)を辿る |
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※「美作道」から分岐する古代「因幡道」
@因幡道分岐:佐用郡佐用町佐用 |
A(県境・釜坂峠):佐用郡佐用町東中山 |
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古代の「駅路」と「駅家」の所在については、「播磨国風土記」、「類聚三代格」、「延喜式」、「日本三代実録」、「令義解」などの古文書に僅かに出てきますが、実際の場所が発掘等で確定されたのは全国400ヶ所のうちでも本当に少ないのです。その中でも、現在の都市部にあって都市開発に伴う発掘調査が行われる機会に恵まれた「山陽道」では、布施駅、野磨駅の発掘調査、研究が進んで解明されつつあり、全国的にも教科書的モデルとなっています。また、賀古駅、邑美駅、大市、高田の駅等の調査も進んでいて、古代の駅家の存在が次々と明らかになってきます。また、「山陰道」「南海道」などは記録もほとんど伝わらず、発掘調査も余り行われていませんが、山陰道の粟鹿駅の可能性も見せる遺跡発掘もあったりして、今後、山陽道以外でも、各駅の解明が期待されています。(2014年3月〜、2025年2月) |
6.参考文献の紹介
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※参考にした資料:
・『兵庫県古代官道関連遺跡調査報告書1〜5』兵庫県立考古博物館、
・『歴史の道調査報告書全集9“近畿地方の歴史の道9”兵庫1』兵庫県教育委員会(海路書院)、
・『歴史の道調査報告書全集10“近畿地方の歴史の道10”兵庫2』兵庫県教育委員会(海路書院)、
・『山陽道駅家跡〜西日本の古代社会を支えた道と駅〜』岸本道昭著(同成社)、
・『完全踏査・続古代の道(山陰道・山陽道・南海道・西海道)』武部健一著(吉川弘文館)、
・『古代官道・山陽道と駅家〜律令国家を支えた道と駅〜』兵庫県立考古博物館、
・『明石の古道と駅・宿〜発掘された明石の歴史展〜』明石市ほか、
・『駅家発掘!〜播磨から見えた古代日本の交通史〜』兵庫県立考古博物館、
・『ひょうごの遺跡』兵庫県立考古博物館、 など
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※その他の各道路のページをご覧下さい。(下の「写真」をクリック)
(80)古代の道「山陽道」等を都から大宰府まで駅家を辿る
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