阪神淡路大震災への教訓にならなかった明治・大正期の神戸群発地震・明石海峡東部地震
 (郷土史の談話41)
阪神淡路大震災への教訓にならなかった明治・大正期の神戸群発地震と明石海峡東部地震
●110年前の神戸群発地震(明治32年、1899年)
 今を去る110年前、神戸市を突然に群発地震が襲った。1899年(明治32年)7月5日、六甲山を中心に、不気味な地鳴り、戸や障子が揺れて外れるほどの地震動が1年間続いた。その年の春先、3月7日に起きた熊野灘地震(*1)の4ヶ月後のことである。
六甲山北側(有馬側)山麓
 六甲山の方向から聞こえてくる鳴動(地鳴りと震動)は日を追うごとに回数を増し、8月中旬には日に200回、地震も11月には日に33回を数えるほどになった。当時はまだ地震計を設置するなどの観測体制は取られておらず、地震記録には残されていない。
 この年の11年前(明治21年)には会津で磐梯山の噴火、山体崩壊という激甚災害(*2)が発生しており、更に100年ほど前の江戸後期には浅間山の噴火(*3)、もっと昔にはイタリアのヴェスヴィオ山噴火によるポンペイ都市の埋没(*4)などが伝わっており、神戸の人々の不安は如何ばかりか。「すわ、六甲山の大噴火、大地震の前兆」と大騒ぎになった。
※1 熊野灘地震:明治32年3月7日午前9時40分、マグニチュード7.3の烈震が発生。震源は三重県熊野灘沖の海底。尾鷲、木本管内を中心に三重県で死者7人、負傷者199人などの地震被害、津波は起きず。
※2 磐梯山噴火災害:明治21年7月15日、前兆となる地震を伴って7時45分に噴火を開始。 北麓の小磐梯山頂上付近が消し飛んで磐梯山が山体崩壊を起して、5村11集落が埋没して477人が犠牲。長瀬川が堰き止められて、桧原湖、五色沼などが形成され、河川決壊による土石流、火山泥流など下流地域に大被害を及ぼした。
※3 浅間山の噴火:1783年(天明3年)の4月9日、浅間山北麓から大噴火。火砕物の降下、火砕流、岩屑なだれ、泥流、降灰なども伴い、利根川流域の関東平野に、死者1,634名、流出家屋1,151戸のほか、江戸までも降灰被害を及ぼした。
※4 ヴェスヴィオ山噴火:近年まで時々噴火して災害をもたらしている。特に紀元79年8月24日の大噴火による火砕流でポンペイ市などが市民の生活状態のまま埋没した。
※5 慶長伏見地震:1596年(文禄5年)9月5日、マグニチュード7.0〜7.1、京都伏見付近が震源。京都を中心に京阪神、神戸、淡路島にも被害が及んだ。死者は京都や堺で1,000人以上とされるが、詳細は不明。
 当時、この騒ぎに、地元の新聞社も記者を六甲山、摩耶山に派遣して現地取材を敢行、「六甲山鳴動探検記」としてレポ、市民読者の注目するところとなった。
『六甲山鳴動探検記』
(江見水蔭氏の著書より)
『六甲山鳴動探檢記』(神戸新聞、明治32年7月掲載。江見忠功(水蔭))より

@ 『六甲山の鳴動が不幸にして彼の往年の磐梯山の如き大破裂の前兆であらうものなら、實に由々しき一大事であるのだ。萬一、萬々一、噴火か噴水かの大災厄が起ると仕た時には、單に山麓の諸町村が火砕泥海と為るのみならず、エスヰオ山(ヴェスヴィオ山)の破裂にポンペイの市府が埋没した、それ程にもなるまいが、浅間山の噴火に江戸の八百八町が悉く灰土を冠った、それ處の被害では迚(とて)も済むまい−−我が神戸市は。・・・』
A 『・・・有馬の浴客は此夏の盛り時に際し、安んじて温泉を齢を延べる處ではなく、皆肝を縮めて、下山復下山。有馬開闢以来の大椿事である。・・・』
B 『分署長の調査、測候所長の出張、震災豫防調査會よりも嘱託員が出張するといふ今日。自分は友人松田琳雨子と共に、六甲山に向かって出發し、・・・其探檢の有様を、細大漏らさず讀者に報じやうと思ふ。・・・』
C 『・・・六甲山頂の測量標の下に、本陣を構へ、探象流の視察を下さうとする此時。果然、鳴動の第一聲は来れり。・・・遠雷の如き音響を聴くと同時に、僅かに薄弱なる電気の感じる時の如き小微動を身に覚えたのみだ。・・・此小鳴動の来りたるは、・・・それは有馬町の方ではないか。・・・正午十二時頃、第二の鳴動は来った。一刹那の断震である。鳴響もあまり大いなる物では無い。・・・』

 
この事態を重視した文部省は、7月に震災予防調査会の今村氏を、8月には地震研究の大家、大森博士を派遣。地中の空洞の崩落とか、地震の一種で

有馬温泉背後の六甲山斜面(蓬莱峡) 

(明治後期の六甲山。群発地震当時はまだ六甲山は裸山同然で、植林事業がやっと始まった頃)
ないかとして、六甲山での火山活動の兆候は見られないとして、噴火説を否定。この鳴動の中心は、どうやら六甲山の北側の有馬温泉あたりと思われ、ここでも11月頃から温泉の湧出量倍増、温度上昇、温泉水の下流方面での農業作物被害も出た。
 さしもの、激しかった鳴動も、翌年の明治33年2月頃より次第に収まりはじめ、7月頃には日に1、2回となって、遂に1年に亘った鳴動は沈静化した。
 この騒動は「有馬鳴動」あるいは「六甲山鳴動」として伝わっているが、いかに観測体制が不備で、データが残されていないと言っても、六甲山周辺の活断層において鳴動を伴う群発地震であったことは明白である。 
●100年前の明石海峡東部地震(大正5年、1916年)
 神戸市を突然に襲った群発地震「六甲山鳴動」から10年余り経った大正5年11月26日午後3時8分にも、今度はレッキとした大地震が発生しました。明石海峡東部海域で、マグニチュード6.1、淡路島北部と明石、神戸にかけての地域でかなりの被害が発生しました。正に阪神淡路大震災と規模は小さいが、全く同じ震源地で起きたのです。
  神戸でのおおよその震度は、舞子から塩屋、兵庫から三宮の旧中心部が震度5強から弱、須磨、長田辺りが震度5弱から4、と推定されています。ただ、阪神淡路の時の震源の深さは14kmだったのですが、この時はもっと浅く小規模だったと思われています。被害は、記録では、神戸市で、負傷者2名で塀や煙突の倒壊、亀裂や崖崩れ、水道管破裂など少々出たとなっています。
 しかし、当時の新聞報道を見てみますと、結構市内各地で被害が出ています。
『26日午後3時過ぎ、絶えて大地震を見ざり神戸市は、俄然一大強震に襲われ、折柄前日来の陰雨尚そぼちいたるにも拘わらず、屋内にありたる老若男女悲鳴を挙げつつ先を争って戸外に駈け出し、一時全市大混乱を極めたり』
また、『最初の強震後15分間を於いて、更にやや強き振動を覚え、・・・全市震駭、全く恐怖の色にとざされたり。・・・程なく平静状態に復したり。即ち強震・微震を加え4時間に亘り都合6回の震動を見たり』
  具体的には、中山手通の誰それ邸で、土蔵や塀が倒壊、運河西の風呂屋の煙突倒壊、鉄工所の壁崩落で負傷者、物置で2階の灯油缶が1階の火鉢に落ちて火事、通行中の人が倒壊塀の下敷き、神戸駅の車掌室や事務員室、ミカドホテルの壁崩落、神戸電鉄の変電所の煉瓦壁や平野や西須磨の道路に亀裂で通行不可、兵庫運河の橋が開閉できず船舶動けず、神戸駅構内の無人機関車が動き出し他に衝突、蒸気機関車が桟橋の車止めを突き破り海中に転落したとか。
  前回の群発地震の時もそうですが、大正年間に起きた阪神淡路大震災とそっくりな地震のことも忘れて、「神戸に地震は無い」とは、全くもってナンセンス。「地震があっても大したことない」「嫌なこと怖いことには目をつぶっていよう」ということだったんでしょうね。
 阪神淡路大震災の時に「神戸には地震は無い」という迷信が防災への油断をもたらした要因であろうが、400年余前の慶長伏見地震(*5)による被害は確実にあったし、この100年も経っていない明治後期の神戸群発地震騒動や震源も同じだった明石海峡東部地震さえも人々の記憶から消え去っていたのは残念至極です。
(2013年1月、4月)

(写真右:阪神淡路大震災やその他の地震・災害や防災・減災の記録や資料が集められ、閲覧できる「人と防災未来センター」の資料室)
※サンTVの番組「ニュースポート」で、放送解説(2014年2月)
※FMわいわい局の番組「アフタヌーンねね」で放送解説(2013年1月、2月)
※下の写真をクリックして下さい。リンクします。

(4)阪神淡路大震災も忘れてならない郷土の歴史

(30)阪神淡路大震災
の記憶を未来につなぐ
災害遺産・震災メモリアル

(50)公開された阪神淡路大震災のオーラルヒストリー(口述記録)

(18)ひょうごに災害を及ぼした主な地震一覧
(pdf)

(8)夢灯す、光の彫刻
「神戸ルミナリエ」


編集担当図書紹介
『災害対策全書』
※全国で好評、品切れ近づく。中国語翻訳の出版。増補版が進行中

FMわいわい番組「ゆうかりに乾杯!」放送記録
(70) 東日本大震災の被災地を再訪して
(2013年9月放送)(pdf)

(23)ロンドン大火からの復興を記念する「ザ・モニュメント」(英国)

FMわいわい番組「ゆうかりに乾杯!」放送記録
(88) 福島の原発事故被災地を訪問
(2014年11月放送)(pdf)

共著紹介
『阪神・淡路大震災から
20年 私のたたかい』

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